7/9歴史講座「八田知家と阿野全成事件」のご報告
現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
令和4年8月7日(日)放送回では、源頼朝のもとに早くから加わっていた異母弟阿野全成(あの ぜんじょう)の最期が取り上げられていました。
ドラマ内に関連する史跡や文化財を紹介する「紀行」のコーナーでは、益子町の「大六天の森(だいろくてんのもり)」の「阿野全成の五輪塔」が紹介され、にわかに注目を浴びています。
益子町ではドラマ放送に先んじて、7月9日(土)に歴史講座を開催し、「八田知家と阿野全成事件」と題して茨城大学人文社会科学部教授の高橋修先生にご講演いただきました。
史料に基づいた八田知家や阿野全成の行動を紹介いただき、ドラマとはひと味違う人物像をうかがうことができました。
その時の内容を一部ご紹介したいと思います。
↑歴史講座のチラシ
1 八田知家とは何者か?
・父宗綱は京武者化し、源義朝に仕え、宇都宮・常陸府中ルートの町場、八田を所領とする。
・兄(宇都宮)朝綱が、宇都宮・常陸府中ルートを通じて中世都市宇都宮に進出し、知家が八田の家督を継承する。
※ 朝綱が、前九年合戦時、源義家の命で宇都宮に下向した宗円を、一族の祖に位置付けたと思われる。
・内乱に乗じた独自の軍事活動が、頼朝から軍功と認定され、父と共に側近御家人となる。
・領主として利害が競合する常陸平氏の有力者を謀略で陥れる。
・一国行政権にかかわる常陸府中の支配権、常陸大掾職は、常陸平氏の馬場資幹に安堵される。代わりに自らを「常陸守護」に位置付ける。
※ 東国の守護は、守護となったから行政権が与えられるわけではない。
・頼朝の傘下に入った後も、京武者としての意識と活動を継続した。頼朝もその必要性を意識して重用した。最終的に承久の乱で京武者を捨て、鎌倉御家人を選択する。
2 阿野全成とは何者か?
・源義朝の子で、頼朝の異母弟である。平治の乱で捕らえられるも、赦免され、醍醐寺で出家する。
・僧でありながら武芸を養い、駿河国阿野荘に領主的基盤を確保した。
・頼朝の弟、北条時政の婿として、実朝の乳母夫となる。
・京都の公家社会に人脈を持ち、公武政権内に政治的基盤を構築。
3 阿野全成事件と八田知家
・頼朝の死と十三人の合議制
以前は2代将軍頼家から将軍親裁権を剥奪したと考えられたが、訴訟の取次を13人に限定して、新将軍を支える体制を作ったと解釈されるようになった。
※13人のなかには、実朝派も頼家派もいる。
・阿野全成事件。八田知家は、頼家派として、実朝乳母夫の全成を下野で誅殺することで、頼家から破格の恩賞(築後の守)を得る。
・比企氏の乱で頼家が失脚すると、八田知家の記事が吾妻鏡から消える。
・泉親平陰謀事件では、次男知基に嫌疑がかけられるも、八田知重は、和田義盛の挙兵に与せず、蜂起を密告し、鎮圧に協力して、信用を回復。
おわりに
ドラマ内ではコミカルな場面の多かった阿野全成ですが、史料に基づいてみてみると、独自の政治的基盤を作ろうとしていたことがわかりました。
参加者はドラマとは違った人物像を発見でき、一層興味を持っていただいたようでした。
大河ドラマでも紹介された「大六天の森」は、ましこ世間遺産「源頼朝の弟阿野全成の墓と大六天の森」として認定されています。
今後の保存活用に期待が集まります。
◆関連サイト
ましこ世間遺産「源頼朝の弟阿野全成の墓と大六天の森」https://www.town.mashiko.lg.jp/page/page001977.html
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」紀行「第30回 栃木県益子町/静岡県沼津市」https://www.nhk.or.jp/kamakura13/kikou/30.html
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- 2022年8月10日
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