文化財詳細

藤根善治の墓

藤根善治の墓

ふじねぜんじのはか藤根善治の墓

町指定(昭和48年年2月7日指定)

種類
史跡
時代
江戸時代

藤根宗三郎善冶は、元禄2年(1689)館林藩重臣首藤民部介忠宗の三男として生まれ、各地を渡り歩いた後、享保3年(1718)益子村に流れついた。当時の益子陣屋代官佐野伊左衛門は、藤根の才覚を認め、道祖土に屋敷を与え郷士格で20石の食禄を支給し、家中に剣道、学問の指導を行わせた。
享保12年(1727)3月、代官が江戸詰となり後任に横暴な松尾佐太夫が着任し、薪納を急に平年の2倍(1石につき3束)につり上げてしまった。翌13年は大凶作のため下の庄七ヵ村(益子、七井、生田目、深沢、上大羽、清水、稲毛田)では年貢を薪で納めることになった。しかも真岡の大沼河岸まで運ぶため領民の負担は増すばかりであった。しかし12月に入っても上納できず下の庄七ヵ村も名主16名は延納を嘆願したがなかなか聞き入れてもらえなかったが、善冶のとりなしでどうにか延納を許された。翌14年もまた凶作のため上納できず、ついに名主たちは牢舎に入れられてしまった。
これを聞いた村民350名は一揆を起こし太平神社境内、城山裏手、正宗寺の三ヵ所から代官を襲撃しようとした。それを見た善冶は流血の事態を避けるために一揆勢を説得し、直訴の大罪を犯しても領民を救うため決死の覚悟で黒羽城に赴き、下の庄の窮状、一揆蜂起の動機と鎖撫に至るまでの経過を述べ、薪納の量を半減(1石につき1束5把)するよう領主に嘆願した。
この結果、名主たちは全員釈放された。しかし善冶は捕らえられ翌享保15年2月16日益子陣屋西通り高札場前で、善冶(42歳)と妻寿江(40歳)息子道太郎(13歳)は直訴の重罪人として引き回しの上斬首に処せられ、7日間さらされた後領民に渡されて正宗寺に葬された。その後代官はこの不始末の責任を追及されて切腹となった。
領民は善冶親子をお焚木様と尊称して供養を怠らなかったが、黒羽藩では幕府に知られるのを恐れ、その墓碑を土中深く埋め書類を焼却し領民には一切口外を禁止した。嘉永2年(1849)益子村名主飯塚新左ヱ門により石碑が発見され7月7日追善供養の大施餓鬼がなされた。その後明治13年(1880)7月、飯塚新左ヱ門、小口幸三郎らが発起人となり関係地域の有志の寄付によって墓を整備し、追善大法要が営まれた。

引用:『益子町の文化財』

所在地
大字益子3615
所有者
正宗寺
公式webサイト
http://www.ans.co.jp/u/shosoji/